今回は「バイアスの取り除き方-後編」ということで、行動編をお送りします。
ライターをやっていて、というよりも1人の人間として「どうやってバイアスを取り除き、情報に接近していけるのか?」について言及しています。
前回は「検索編」ということで、「東京R不動産」のユーザー起点のサイト作りや、質の高いUX Writingの情報が手軽に調達できる「KOTOBA UX」の話、「SEO記事企画段階におけるバイアスの取り除き方」ということで着地しました。
もしご覧になられていない方は、是非「検索編」をご一読いただき、文脈が分かる状態で読み進めていただければと思います。
前回記事のリンクを貼っておきますので、こちらからどうぞ。
■「観光する」「旅をする」を起点に、副産物である「バイアスの取り除き方」を考える
バイアスはとても厄介なもので、時に現実を歪めることもあれば、長きにわたって誤った認識を正当化しうる可能性がある。
少なからず自分も何かのバイアスから出られずにいて、昨日の失敗や、明日の失敗を繰り返している。
ライターを仕事にしている僕にとって、バイアスを取り除くにはどうすればよいのか?と考える機会は多く、個人的に色々な工夫をしてきたつもりである。
その中でも特に効果があったのは「観光する」「旅をする」という行為だった。
つまり「現実のものを目の前にして、素直に全身で受け止めてみよう」ということである。
もちろん自分自身が1つの情報編集体であることを認識した上での話だが、何らかの対象を複数の目で眺めることは、何かのバイアスから離れるために効果的な行為だと思う。
今回は結論である『バイアスは「点」ではなく、「面」で取り除ける』に向かって、個人的な体験をもとに見解を述べていく。
※少し脱線も挟みつつ進んでいくので、その点はご容赦いただきたい。
「観光する、旅をする」の基準は一体なんだろうか。
- なぜその土地に行きたいのか
- 仕事ではなくプライベートで訪れる理由とは何か
- 自分を惹き付ける魅力とは何か
そういう思考から跳躍し、着地を試みたい。
▶️目的地が「1つ」だけで、航空券と宿泊費を捻出するかどうか
まず僕の前に現れたのは「果たして目的地が1つだけで、航空券や宿泊費をわざわざ捻出するだろうか?」という問いだった。
特別な事情であれば行くかもしれないが、大抵の場合、観光や旅には複数の目的が存在する。
「1つの対象に対して旅をする」というのは、これまでの経験からリスキーだと感じる。
日帰りとか、1泊2日の旅行ならまだしも、2泊以上する旅先で訪れる場所が少ないのでは、出かける動機としては不十分に感じる。
どうしても観光や旅には「せっかく」という感覚がつきまとうので、普段しないこともやりたくなるし、普段入れない予定も詰め込みたくなる。
そういうわけで出掛けるのに、1つの目的地が例えば「入れない」「定休日」「時期が違っていた」ということであれば、とても勿体ない気持ちになる。
「何のための時間だったのか」「この結果のために費やした時間は何だったのか」
そこまで悔やむことはなくても、少し残念である。
▶それでも、僕らは旅をする
とはいえ不十分な動機であっても、僕たちは旅をすることがある。
どこかで何となく「嬉しい誤算」を期待しているのかもしれない。
旅の醍醐味といえば、そうなのかもしれない。
ある作家は「無計画な旅」のことを「人生の秘密」と呼んでいたが、もしかしたらそうなのかもしれない。
なぜ目的もなく(あるいは果たせるか分からない1つの目的に対して)、僕らは旅をするのだろうか。
▶️旅先での嬉しいハプニングは「リピート」のきっかけになるか
少し視点を変えて、旅先での嬉しいハプニングはリピートのきっかけになるかどうか?を考えてみたい。
もしその土地に新しい魅力に触れられたら、訪れてみて発見があったと思えれば、また来たいと思うはず。
きっと1泊2日では発見できない・体験できない魅力が詰まっていると思うはず。
でも行ってみるまでは、そこで嬉しいハプニングがあるかどうか分からない。
その可能性にかけるかどうか、そこは個人の価値観にもよってくるような気がする。
でも「じゃあ行ってみようか」と言う時、僕らはある程度打算的に、その土地での嬉しいハプニングを想定できているのではないだろうか。
(ある程度知っているからこそ)、1つの目的地であったとしても、足を運ぶのではないか。
▶️僕らは「ある程度知っていること」を確認したくなる
人はおそらく「ある程度知っていること」を確認したくなるのではないか。
逆に言えば、「"知らないこと"を知っていること」で、実際に確認したくなるのではないか。
全く知らない状態では、何が自分に欠けているのか?がわからないから、その欠けを埋めるための方法を考えようとしない。
「検索ベースでは知っているけど、行動ベースでは知らない」
そういう時に僕らはきっと確認したくなる(現地に訪れたくなる)のだと思う。
だから何らかのバイアスは(偏った見方は)、1つ旅の動機として必要な要素なのかもしれない。
▶️沢木耕太郎が『天涯』にて語った「旅の現実」
沢木耕太郎さんはルポライター、ノンフィクション作家としてよく知られている。
彼は記者として世界を巡り歩き、何度も夢をもって土地に訪れては現実に遭遇する様子に言及している。
その様子は代表作『深夜特急』を読めば一目瞭然だが、沢木耕太郎さんは『天涯』にてこう語った。
「旅の発端は夢であっても、旅先で目にするのものは現実である。しかし、旅先で目にするものが現実だったとしても、その旅を持続させるのは、やはり夢である」
ここで言及されている「現実」とは、決してネガティブな要素だけを内包しているのではなく、「旅の現実がもたらす新しい夢」というポジティブな要素にも言及していると感じる。
今回の文脈で解釈すると、旅先で目にする現実とは「現地で新たに見つけた地域の魅力」であり、目的地(点)に向かったはずが、いつの間にか地域という「面」に囲まれて観光・旅している自分を発見する、ということではないか。
そうであれば、旅をする前には分からなかった地域のことが、バイアスが取れた状態として受容できるはず。
自身が1つの情報編集体である以上、完全にバイアスが取れないとしても、現地に訪れる前と後では認識に差が生まれているはず。